りーもんのブログ

暇つぶしにでも見てみてはいかがですか!

人生における欲望と愛情について

人間には基本的欲望が備わっています。

食欲とか睡眠欲とかは一般的に聞いたりしますね。

これら人間本来の生存にかかわる基本的欲望については生存欲といえます。

他、子孫繁栄を目指す基本的欲望もあります。家庭欲といえます。

そして社会を喜ばせ、社会の賛辞を求める基本的欲望もあります。

これは社会欲といえます。

 

人生の第一歩は生存欲を満たすことから始まります。

赤ちゃんの時から母乳を求めて泣きますね。

生存を維持するために必死で泣いて訴えます。

その欲望は自己中心的であるといえます。

誰から教えられることなくおっぱいを求めて吸い付くことができます。

どんなに母親が赤ちゃんに母乳を飲ませようと思っても赤ちゃん自身にそれを飲もうとする意思がなければどうすることもできません。

ということは赤ちゃん自身には生来的に生存を維持する基本的要件が備わっていることがわかります。これを欲望と表現することができます。

 

ですが、母親が赤ちゃんに母乳をあげようとするとき、それを母親の欲望というのは少し無理がありますね。

母親の欲望ではなく、母親の愛情といえます。

欲望は利己的に作用しますが、愛情は利他的に作用します。

母親が赤ちゃんの欲望を満たそうとするときそれは愛情です。

また、相手の欲望と一致したときに愛情は成立します。

ということは相手の欲望がなければ愛情は成立しないのですから、欲望と愛情というのは反対に見えて同じ価値を持っているんですね。

 

生まれたときからある一定期間までは自分の欲望を満たそうと欲望主体人生を通過しますが、徐々に成長するにつれて相手のために何かしたい、自分よりも相手を喜ばせたいという愛情主体に切り替わっていきます。

これが成長といえるでしょう。

人生において欲望主体で生きるのか、愛情主体で生きるのかというのはものすごく大事であると感じております。

 

自己の欲望を満たそうと欲望主体で生きていくと、その結果戦争や略奪、虐殺といった世界につながります。

身近で言うといじめや暴力、そういったことが起きるのは、結局他者の迷惑を顧みずに、自己の欲望を満たそうとする我欲主義によって起きる問題です。

生存を維持するのに備わっている基本的欲望は否定するべきではありませんが

この我欲主義は徹底的に否定しなければなりません。

 

では次は我欲主義に触れて書きたいと思います。

 

 

愛情は仕えることが喜び

前回の続きです。

お母さんと赤ちゃんの間は愛情関係で成り立っています。

生まれたばかりの赤ちゃんは何もすることができません。

夜泣きはするし、ウンチはするし、抱っこを求めます。

赤ちゃんは暴君のようですが、母親は赤ちゃんのわがままを許し、一生懸命お世話しかわいがり、抱きしめて幸福感に浸ります。

赤ちゃんが少しでも様子がおかしかったら心配するし、

ご飯を食べない、ウンチをしないだけでも心配になります。

愛情関係においては仕えることは喜びになります。

愛情には落差を埋める働きがあります。

本当に愛すれば自分を犠牲にしてでも愛したいと思います。

 

 

さて、愛情ついてお話ししたところで、

次はその愛情が成立するには相手の「欲望」が必要であることをお話ししたいと思います。

原因と結果の関係

「原因にないものが結果に表れることはない」

つまりどういうことか、

簡単に言うと100円の入った財布からでてくるのは100円以下しかありえません。

水は高いところから低いところに流れます。

科学的現象において100の原因からは100以下の結果しか出ません。

 

また、人間の精神作用に基づく創造についても同じようにみることができます。

カレーライスを作る場合、カレーライスを作るという目的があって、

その目的は一度も変わることなく存在し目的に基づいて材料を準備し、

道具を用意し最終的に結果としてカレーライスが現れます。

 

これらの現象はすべて一つの三角形で説明できるのですが、

詳細は今は述べません。

聞かれたい方はコメントあればまた別でお話ししたいと思います。

 

 

そして以上のことを踏まえて、

原因と結果という関係において落差がある場合とない場合についてお話ししたいと思います。

落差がある場合というのは100の原因から60の結果が出た場合です。

100と60の間には落差があり、100から60への作用は可能ですが、

60から100への作用は不可能です。

60には60の原因があり、100を含むことはできません。

 

これをもっと具体的な例でいうと、

科学者がロボットを作った場合、科学者はロボットを理解できますが、

ロボットが科学者を理解することはできません。

これはつくった側(原因)とつくられた側(結果)に落差があるからです。

 

では落差がない場合はどうでしょうか。

これは100の原因から100の結果が出た場合のことをいいます。

原因と結果は=であり原因から結果、結果から原因への双方向の交流が可能です。

親と子はこのような関係ではないでしょうか。

親と子供は人格の交流が可能です。

親は子供を理解しようとし、子供もまた親を理解しようとします。

その関係には愛情が中心的役割を果たします。

先ほどの科学者とロボットの場合は愛情ではなく、

イデアや技術が中心的役割を果たしそれによって関係は出来上がっています。

親子の場合は子供を生み出すのにアイデアや技術は必要ありません。

必要なのは愛情であり、本質である愛情関係によって親子は成り立ちます。

 

 

さて、それでは先ほどの2つの例からそのそれぞれの特質見てみましょう。

科学の場合、知の特質により相手より自分が上に立とうとします。

より良いものを作ろうと思えば上へ上へと目指していきます。

科学はそうでなければ発展していきません。

ですが、親子の場合はどうでしょうか。

親子の場合、親は子供を上に立たせたいと思うため、自分は下へ下へと下がります。

逆に子供は、親を尊敬し親を喜ばせようとします。

そうなれば落ち着くところは水平になるでしょう。

 

科学の場合、能力が高いとか高さを誇りますが、愛情の場合は高いとは言わず、

愛情深いというように、深さで表現されます。

愛は相手を上に立たせ自分は下へ下へと下がることがわかります。

これは愛情の特質です。

 

このことを次は具体的に見ていきましょう。

物事を考えるときの2つの視点

今日は物事を考えるときの重要な2つの視点について書きます。

 

それは「なぜ?」と「どのようにして?」です。

何事も人はこの2つの疑問を持つわけです。

 

なぜは目的を聞き、どのようにしては方法手段をきくものです。

5W1Hときいたことはありますか?

5W1HとはWhen(いつ)、Where(どこで)、Who(誰)、What(何)、Why(なぜ)、HOW(どのようにして)ですね。

これには6つありますが、Why(なぜ)以外の質問の5つは方法手段にまとめることができます。

いつどこで誰が何をしたというのは物事の過程や結果を追求しています。

しかしWHYだけは原因を追究し目的を聞くものです。

なので人は大きく分けてHOWとWHYの2つの疑問で物事をとらえることがわかります。

 

 

科学の発達というのは目覚ましいもので、新しいものがどんどん作られていきます。

常に進化し続けており、より良く変化し続けていきます。

科学では想像力を膨らませアイデアをだし、技術が伴って創造されます。

すごいことですね!

実はこれができるのは人間だけなんですよね。

動物は何十年、何百年と遡ったとしても同じように存在しています。

100年前の燕も今の燕と同じ巣をつくり同じように雛を育てていることでしょう。

でも人間だけは想像力と創造力を兼ね備えて時代と共にどんどん発展しています。

学問の幅も広がり、食べるものも変化し、建築だって昔と今じゃ全然違います。

人類の文化は大きく発展し続けています。

 

先ほど述べた2つの視点で見たときに、

この科学の発達というのはHOWと捉えることができます。

方法手段が追及されていくことで科学は発展していくわけです。

 

ではWHY(なぜ)を探求していけばどのようになるでしょうか。

WHYの探究はつまり目的の探究ですよね。

目的を探求していけば突き詰めると人は「なぜ宇宙が存在するのか」「なぜ生まれてきたのか」という問題に到達せざるを得ません。

哲学的疑問に人間はどうしても向き合ってしまうんです。

これも人間だけが考えることができるんですよね。

動物界に宗教はありません。

でも人間界ではいろんな宗教があり、自己の存在理由を求めたり、信仰を行ったりと哲学的問題に向き合い、

とにかく自分や宇宙という存在をどう捉えどう解決しようか考えてしまうんです。

 

何で人間はそうなっているのでしょうか。

みなさんはどう思われますか?

 

科学分野の代表は自然界を研究するのに対し、

哲学分野は人間の精神作用を研究するのでよく論争が行われますが、

でもこの2つのHOWとWHY、、、実は一つにまとめることができるんです。

 

どうですか?興味ありませんか?^◇^

 

 

 

本心が欲する生き方とは

今日は「本心が欲するもの」について書いていこうと思います。

 

本心が欲するものと拒むものがあります。

欲するものはやっぱり、幸せ、喜び、感謝、嬉しい、感動…等々

そういう話を聞くと幸せな気持ちになりますし、良い気持ちになります。

反対に拒むものは妬み、憎しみ、闘争、殺人など。

そういう事件や話を聞くとこう嫌な気持ちになりますよね。

それって人間の本心だと思うんです。

 

では本心の欲するものについてみていくと

共通するものは「愛情」ではないでしょうか。

愛情を動機としているものを心は求めているのではないでしょうか。

愛情は見えないけれども形を変えて私たちの生活に現れたりします。

見えないから言葉にするのは難しいけれども、

例えば何かをしてあげたり、してもらったりしたとき、

その動機が愛情であれば心は良い気分になるし、うれしいですよね。

ほら、よく良いことすると気持ちが晴れたりするじゃないですか。

これは自分から相手にですけれども、

相手から自分にでも愛情を受けるともちろん嬉しいものです。

 

でもいくら相手が愛情もってなんかしてくれたとしても嬉しくないこともありますよ。

それは私のニーズというか欲望にあっていない行為をされたら、嬉しくなかったりします。

愛情ってただ自分発信の相手を幸せにしたいとか喜ばせたいとかだけじゃ、ただの押し付けというか迷惑になったります。

それは自分がこうしたいっていう欲望、言い方は棘があるかもしれないですが、「我欲」になっているのでそれは愛情ではないですよね。

 

愛情ってただ一人で成立すものではないです。

愛情というのは相手があって成立するもので、もっと詳しく言うと相手の欲望にあって成立するものなんですね。

 

話が少しそれてしまいましたが、

本心が欲するものは欲望が満たされたとき、愛されたときです。

愛情が成立したときです。

これって別に難しい話じゃなくてただ当たり前のことを言っているだけです笑

人間みんなそうなんですよね。

 

愛情深い行いは人から立派だと称賛されるし、それの規模によっては善人や英雄と言われたり、釈尊孔子、イエスキリストのように聖人と呼ばれたりします。

聖人にスポットを当てるとそれぞれ詳しいことは置いといて、

みんな自分の欲望に生きるのでなく愛情主体の人生を歩まれていることではないでしょうか。

だから万民が称え、歴史を超えて慕われ称賛されているんです。

 

聖人と呼ばれる人たちは愛情主体の生き方をされているというのは

つまり、人生の目的を自分の幸せとか自分の喜びではなく、

自己を犠牲にしてまでも他者を愛することを喜びとして、

もっというと自分よりも自分を生み出した目的のために生きたから聖人と呼ばれるわけです。

 

これは聖人の話でしたが、聖人や偉人や英雄とかそういう呼ばれ方は一種の人生の価値表現とも思えます。

人間の本心が欲する愛情主体人生の最高峰は聖人といえます。

世界のために尽くした人が偉人、国家のために尽くした人は英雄と呼ばれます。

ただいいことをした人は善人と言われたりするでしょう。

 

愛情主体の度合いによって人間の価値は決まるといえます。

最高の価値ある人間になるには愛情主体の人生を生きることです。

これが人生で最も大事なことであり私も愛情主体の人生とするために精進する日々です!!

 

みなさんはどうですか!?

 

価値は目的によって決まります!!

みなさんは価値は何によって決めてますか?

お金?それとも使い勝手?

 

そもそも価値とは?

価値をネットで調べてみましたら「どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度。値打ち」とかいうのがでてきました。

 

例えば、時計があるんですけど、

普通に考えると時計の価値を測る時、まず第一は動くかどうかですよね。

時計として時間を計るっていう役割をしてくれないと意味がないですから。

そしてその後、買った値段とか、どこどこのブランドとかそういうのでああこれは価値が高いね、とかいったりしますね。

だいたいここらへんで「お金」に価値をおいて考えてますね。

 

先ほど動くかどうかというのを第一に考えましたが、

でも動かない時計にも価値があったりします。

例えばそれがおばあちゃんの形見だったりしたらどうですか?

たとえ動かなくても手元にあるだけでその時計には意味があり、価値があると思うんですね。

 

じゃあ時計の価値ってどうやって決まるの?

って思うとそれは目的によってその価値は決まるんですね。

時計の目的がただ時間を正確に知るということだったら、正確な時計に価値があるし、お洒落に見られたいからという目的だったら、お洒落な時計に価値があるし、

おばあちゃんの形見ということならその時計自体に価値があるわけです。

だから価値を決めるのはその目的なんですね。

 

そう考えてみると、私の価値って何でしょうか。

よくこういうことを聞いたりします。

「自分は価値のない人間だ」「生きている意味が分からない」

こう思って自殺したり、悩んだりしている人がいます。

自分の価値がわからない人たくさんいます。

 

それはつまり、価値がわからない=目的がわからないから なんですよね。

生きる目的がわからない=人生の目的がわからない

自分に価値がないと思う=自分には目的がない

というわけなんです。

 

でも以前書いた通り、目的があるから私たちは存在しているんです。

目的があるということはその目的を知り、目的通りに存在することができたら、

それは価値ある人なんです。

だから生きる目的を知ることっていうのは自分の存在を認めることであって、

絶対に必要なことなんですよね。

 

目的によって価値が決まるということは

人生の価値も生きている目的によって決まるんです。

 

皆さんの人生はどうですか?

どういう目的をもって生きていますか?

 

でも以前の記事を読まれたら、

人生の目的って生まれる前から決まっているんじゃないの?

って疑問になりますよね。

 

答えはそう、その通りです。

生まれる前から決まっていて、その目的通りに人生をいけば、

その人の価値は最高の価値になります。

人間みんな目的もって生まれてきてるんだから、

みんな最高の価値を発揮できるんですよ!素晴らしいですね!

 

そのためにはまず「人生の目的を知る」これが早急な課題です!

 

 

 

 

 

 

なぜ人は存在しているのか

種を植えると芽が出て葉が出て花が咲き、実がなります。

何でそうなるのでしょうか。

 

ほとんどの人はそれは植物の成長には水、温度、酸素、光など、植物の成長における

状況がそろったから芽が出るんだよって答えます。

詳しい植物学者なら種の中にある胚や胚乳、こういう細胞がどうなってこうなって、

芽が出るようになっていると答えるでしょう。

でも、ちょっと待ってください。

どうしてそうなっているかというのはその説明を聞いてわかりますが、

でもそれは植物の成長する過程を見て、

そうなっているというのを見ているだけではないでしょうか。

 

この前の記事にも書いた胎児の成長を思い出してください。

人間はどうやって生まれるんですか?

それは精子卵子が受精して受精卵ができて、細胞分裂して、、、、

ってなると思うんですけどそういう仕組みを説明はできてもじゃあなぜそうなるのか。

ここは人間には説明はつかないと思うんです。

 

なぜ生まれてきたんですか?

そう聞かれてそれはお父さんとお母さんがいて、そこから一つずつ細胞貰ってそれが人になって誕生したんですよ。

それはそうですよね。さかのぼるとそうなります。

でもそれはさっきと同じように過程を聞いているだけなんです。

 

では聞き方を変えて、生まれてきた目的はなんですか?

お母さん、お父さんに聞いてみましょう。

でもお父さんお母さんがあなたを作ったわけじゃないですよね。

たしかに、お父さんとお母さんの出会いがなければ子供は生まれません。

ですが、私の耳も目も口も、手も足もお父さんやお母さんが作ってくれたわけじゃありません。どこをつくったんですか?

両親が作ったんならもっと美人に産んでくれてもよかったのに、、、なんて(笑)

 

なぜ生まれてきたのか。

この疑問を答えられる人はいるのでしょうか。

模索して模索して、いろんな人が研究し、いろんな人がいろんな考えに行きついています。

大半は人生のなかで「幸せになるためだ」とか「人を喜ばせるためだ」とか「お金を稼ぐためだ」とか自分の生きていく中で自分で人生の目的は決めてます。

それは人生の始まりでなく途中から生きる目的を定めるかたちになりますよね。

もちろんまだ定め切れていない人だっています。

 

創造されたものには必ず目的が先にあります。

全部目的をもってつくられているんです。それは人間もです。

宇宙にも目的があり、目的は宇宙の前にあります。

人間にも目的があり、それは人間が存在する前にあるはずです。

 

目的を決めるのは誰か、それはつくられたものでなくつくったかたです。

だから生きる目的って最初からあるはずですよね。

人間みんな目的もって生まれてます。

だから存在する意味がない人なんていないんですよ。

 

存在する理由は私やあなたをつくった存在にきくのが一番ですね。

そうすれば人生の目的を知ることができます。

で、結局それは誰なんですか?

 

 

というのはもう神様としかいえないんじゃないでしょうか。

神さまを認めたくない方は仕方ないのですが、認めざるを得ないぐらい、

植物が成るのも、宇宙があるのも、人間が生まれるのも理屈じゃ説明できません。

こういうとスピリチュアルみたいになってしまい間違って聞こえてしまうかもしれないですが、

存在よりも目的が先にあるというのは当たり前のことです。

偶然たまたま生まれてたまたま宇宙があってたまたま地球に人間が住んでいて、

たまたまたまたま猿から進化の過程で人間になってなんかたまたま生まれてたまたま存在していると片付けることの方がおかしいのではないでしょうか。

たまたまにしてはできすぎてます。