本心が欲する生き方とは
今日は「本心が欲するもの」について書いていこうと思います。
本心が欲するものと拒むものがあります。
欲するものはやっぱり、幸せ、喜び、感謝、嬉しい、感動…等々
そういう話を聞くと幸せな気持ちになりますし、良い気持ちになります。
反対に拒むものは妬み、憎しみ、闘争、殺人など。
そういう事件や話を聞くとこう嫌な気持ちになりますよね。
それって人間の本心だと思うんです。
では本心の欲するものについてみていくと
共通するものは「愛情」ではないでしょうか。
愛情を動機としているものを心は求めているのではないでしょうか。
愛情は見えないけれども形を変えて私たちの生活に現れたりします。
見えないから言葉にするのは難しいけれども、
例えば何かをしてあげたり、してもらったりしたとき、
その動機が愛情であれば心は良い気分になるし、うれしいですよね。
ほら、よく良いことすると気持ちが晴れたりするじゃないですか。
これは自分から相手にですけれども、
相手から自分にでも愛情を受けるともちろん嬉しいものです。
でもいくら相手が愛情もってなんかしてくれたとしても嬉しくないこともありますよ。
それは私のニーズというか欲望にあっていない行為をされたら、嬉しくなかったりします。
愛情ってただ自分発信の相手を幸せにしたいとか喜ばせたいとかだけじゃ、ただの押し付けというか迷惑になったります。
それは自分がこうしたいっていう欲望、言い方は棘があるかもしれないですが、「我欲」になっているのでそれは愛情ではないですよね。
愛情ってただ一人で成立すものではないです。
愛情というのは相手があって成立するもので、もっと詳しく言うと相手の欲望にあって成立するものなんですね。
話が少しそれてしまいましたが、
本心が欲するものは欲望が満たされたとき、愛されたときです。
愛情が成立したときです。
これって別に難しい話じゃなくてただ当たり前のことを言っているだけです笑
人間みんなそうなんですよね。
愛情深い行いは人から立派だと称賛されるし、それの規模によっては善人や英雄と言われたり、釈尊や孔子、イエスキリストのように聖人と呼ばれたりします。
聖人にスポットを当てるとそれぞれ詳しいことは置いといて、
みんな自分の欲望に生きるのでなく愛情主体の人生を歩まれていることではないでしょうか。
だから万民が称え、歴史を超えて慕われ称賛されているんです。
聖人と呼ばれる人たちは愛情主体の生き方をされているというのは
つまり、人生の目的を自分の幸せとか自分の喜びではなく、
自己を犠牲にしてまでも他者を愛することを喜びとして、
もっというと自分よりも自分を生み出した目的のために生きたから聖人と呼ばれるわけです。
これは聖人の話でしたが、聖人や偉人や英雄とかそういう呼ばれ方は一種の人生の価値表現とも思えます。
人間の本心が欲する愛情主体人生の最高峰は聖人といえます。
世界のために尽くした人が偉人、国家のために尽くした人は英雄と呼ばれます。
ただいいことをした人は善人と言われたりするでしょう。
愛情主体の度合いによって人間の価値は決まるといえます。
最高の価値ある人間になるには愛情主体の人生を生きることです。
これが人生で最も大事なことであり私も愛情主体の人生とするために精進する日々です!!
みなさんはどうですか!?